人それぞれ人格も個性も異なるように天命があるものです。天命は神様だけが決めたというものでもないと思います。そこには自分という存在が加わって始めて成り立つのです。
天命だからこの不幸はこのままだと諦めるものでもなくて、同じ不幸でも、落ちこんでいるのと、笑い飛ばしていこうとするのとでは気持ちの変化がおこります。
落ちこんでいるとドンドン下降していき、もし水の中にいたなら溺れてしまうかもしれません・・・・・・・・。
笑い飛ばせる心境になれないにしても、上を見上げて沈まない用心をすることか、泳ぎつける岸を探そうとすることで選択肢が変わって行くことができ、運命が好転していくことにつながります。
与えられたと言うより、むしろ自分の魂が望んでこの人生を得ている中で、分相応という言葉があるように、
「身の程」を知る自分を見極めていかなければならなりません。
それなら好きなことをやりたい放題にしてもいいのかな?ということもありえますが、どうしても自分が生涯をかけてもトライしていきたいのならそれも生き方です。
天命の話に戻りますと、自分以外の人の天命を羨んでもキリがなく、
どうして自分の運命はこうなんだろうと、またまた考え込んでしまいます。
自分にしか出来ないこと、自分だから楽しく思えることを日常の中でも見出して、天命という花が花開くか、少し開くか、それともつぼみのままか、
それぞれ左右されるのではないでしょうか。
私は学生の頃にアルバイトをしていた喫茶店で、そこの経営者ご夫婦が、がお店と家庭のお仕事を目のまわるような忙しさで仕事をこなしていたので、
「すごいですね~」と言うと「これが小さいけれどね、私の天命だと思っているし、楽しいのよ!」と言われたのを思い出します。
「一度に10人くらいお客さんが来ても焦らず順番に応対して行けばいいのよ、1人も10人も同じこと」 と話されたことがありました。
なるほど人生もそのとおりで、自分を悩ませる問題が天命で、どのように対応していくことができるか、また何も対応せずに溜め込んでしまうかでは大違いです。
与えられた環境の中でどのように生きて過ごすか、環境を打ち破るためにはどうすべきか、次にはどこに進もうかと考えていくことも選択肢がドンドン変化します。「生まれて生きて」がすなわち天命そのものなのです。
「自分にしか」つくれない人生は霊的な心の成長でもあり誰にも取って代わることができない大切な生涯です。
決断迷う
買い物にいってもすごく悩んで買わずに帰ったり、予定とまったく違うものを買ってしまったり、優柔不断なことは起こります。
それがましてや車や家の購入となれば考えあぐねてしまうことも多いと思います。
どうして自分はすぐに決められないのか、決めたのにもかかかわらすあっちがよかったかもしれないと振り返ってしまうこともあるものです。
何かにつけていつもこだわりをもって決め手も、やっぱりあっちがよかったかもしれない・・・気持ちがいったりきたり
自分の心がフラフラしているから決断できないと心配されるより、より良くするために悩むということ、それでも決断できなければしばらく保留にするか人に相談することです。
欲深い発想からの迷いでなければ、ご自分が使いやすくてより良くなるために考えすぎてしまうのですから、追いつめて考えすぎないように。
加藤眞澄ホームページへ