感受性が強いと疲れてしまいやすいです

 

一概に感受性と言っても、霊的に受けてしまう感受性や人の思いや意識を感じ

とってしまう感受性などありますが、霊が憑きやすい人、周りには見えなくて

も本人だけは見えていたり、人と会った途端その人の感情が伝わってきてしま

ったり、時には会う前から予感があったり、

そういう感受性が強い人はとても神経が張り詰めて疲れやすかったり、

エネルギーの消耗が激しいこともあります。

 

人よりも余計なことまでキャッチしやすいので

クタクタにもなりやすいかもしれません。

それなら思ったり感じなければよいのですが、

生まれながらにキャッチできる精度の良いアンテナをもっているように、

敏感に反応してしまいます。

 

本来はそのおかげで危険なことも回避できているのですが、

どうしても現実の辛いことに意識が行きやすくなるので、

気がついていないだけです。

過敏で脆そうですがとても芯が強くて頑張り屋さんが多いものです。

敏感な感受性を備えて生れてきた人は

それだけ危険回避ができる技も携えているのですが、

現実社会では人と比べてしまいがちになるので、

現実ではないことに引け目や自分に異質感を持ってしまいがちです。

 

霊的に言えば見えないものを、

抱え込んだりため込んでしまいがちでもあります。

体も丸めがちにもなります。

深呼吸や手足を伸ばしてストレッチして

溜め込んだ気を吐き出すように。

なるべく空を見上げて意識を上に向けることも心がけてください。

より良き日々でありますように。

 

 

ご先祖とお墓と供養

 ご先祖からのつながりで我々は現在があります。

供養のやり方は宗教的にもいろいろです。

先祖がつくったお墓がある場合。旧家なので代々お寺の檀家として大切に継いで守っているお家。

 

また、祖父母の代から違う土地に出てきたために先祖の墓がどこにあるか知らされないまま、新たに父母の墓が霊園にあるのでお盆にはお参りはしているなど・・。

このようにさまざまなケースがあります。最近では少しずつ変化してきており、どのようなご供養が適切なのか、またお墓も必要がないという考え方で、

散骨を望まれたり樹木葬や合祀墓と余り形に捉われることなく自然にありたいと願う人も増えています。やはり個人の遺志を重要視することが大切です。

 

 檀家制度は江戸時代に始まって以来、形骸化されて霊的な世界に旅立って逝かれたご先祖への思いや供養をお寺に託していくことになり現在に根付いてきました。

立派な戒名をいただき、墓も建立し、お坊さんにお経を読んでいただいて先祖を大切に敬い供養することも受け継がれてきた、きれいな供養の方法の一つだと思います。

先祖を介して過去を供養していく思いは現世の家運繁栄にもつながりますし、先祖も守ってくれます。

それでもただお金をかければ良いというものでもなく、先祖を敬う気持ちや感謝できること、亡くなった方へ供養の思いが大切です。

 

生きている側からすると亡くした父母や兄弟への思いや記憶は特に新しく、つながっていたいという気持ちの表現がお墓の姿になることは古代からありました。

 

宗教的な問題は現代ではこれもまた自由です。先祖や父母を思いやり供養をすると考えるなら、いま私たちは先祖から身体と遺伝子を受け継いでいるわけで、これ以上どうやって供養をしたらよいかと悩むよりも、

自分自身を大切にして生き抜いて人生を守っていくことが最高の供養でもあります。

それすらも粗末に考えていたら、たとえどんなに偉い僧侶に拝んで供養していただいたとしても、立派なお墓を建てたとしても気持ちが伝わらないのと一緒です。

形だけお線香だけ焚いていればそれでいいということになってしまいます。

直接血のつながりのない養子の人でも、先祖を守っている人もいます。

どちらにしても「縁」でつながっています。

 

本当の供養とかを考えていきますと、自分という存在が過去から受け継がれてきた、そのことに関して否定をすることなく、自身の過去を肯定し、受け入れることを思惟していかなければなりません。

 

 幽霊と言われる意識体が強いものはいまだ存在しています。供養して欲しいものが訴えてきたり、人の意識に入り込んできたりします。

お盆やお彼岸など霊的な現象も多く起ってくることもありますが、今後霊的な世界と人間界は非常にリンクしやすくなってきますから、物質的なこだわりの供養から形はシンプルでも魂魄を込めた供養にもなってくるのだと思います。

ご自分自身も大切に

 

 

 

同じところに留まってはいられない

 

たまたま電車で隣同士に乗り合わせただけなのに心地良い人がいるものです。

新幹線の肘掛一つでも隣の人を気使って肘をかけずに姿勢良くしている人など、老若男女の関係なくマナーのある人と接することは、お互いに居心地が良く快適に過ごせる時間を共有できます。

 

 けれども反対に平気で隣の人に肘がはみ出すくらい深く肘をかけてくる人、大声で携帯電話で話す人、足を思いっきり広げて座る人などは、隣の人も周りの人も不快ですし、疲れていたらなお一層まいってしまいます。

 

日常でも穏やかに心地良い人たちだけに囲まれて、できることならずっとそういう時間を過ごしていたいと思っても、穏やかで心地良い気持ちだけで過ごしていくことはむずかしいものです。

 

次の行動と約束や時間に移り過ぎてゆくのです。

マナーのない自分勝手な人とも電車から降りたら別れることになります。

良いことも嫌なこともその場に限りなく存在することはありません。

同じところにはいられないのです。

 

 毎日の出来事も一見同じようなパターンで日々過ごしているかのように思えますが、日常も違っていることに気づいてみると、なかなか面白いものです。

まず自分が考え方を変えてみるだけで見方も変わってきます。

 

どうせそうだからと自分でパターン化してしまうと、今日もまた同じでつまらないなということになります。惰性的に過ごすのではなく、日々何かを発見できるように意識を向けることです。空を見て流れる雲一つをとっても決して同じ雲は現れません。

生活している場はあまり変わらなくても、時間も人も自分の感情や思考は同じところにいることはないのです。  

 

 私たちの一生はそれぞれ皆異なります。

同じ環境に育っても同じではあり得ません。楽しくてもいつまでも楽しいわけではないし、同様に悲しいこと苦しいこともいつまでも続くことはありません。

 

ただ楽しいということ以外の苦しくて嫌な思い出は、尾を引くことが多く気持ちが乱されてしまいやすいのですが、自分の過去からの積み重ねをいかに受けるのか、重圧と受け止め立ち止まってしまうのか、あるいは強く賢くなるための経験として感謝できるかによって、先に進んでいくための瞬間瞬間の感情や思考はすべてが流動して存在しているのです。

 

体の細胞も流動して使命を果たしていることで、私たちの体は維持されています。すべての相互関係がうまく働いていかなければ、思うように人生は成し得ることができないのです。 

 

 人生が楽しいか、つらいかは価値観次第で変わることですが、どの時点で自分が支えられてきたかと考えるとつらいことが逆に自分を支えるパワーをくれていたりするものです。もっとも楽しいことばかりが続いたとして、自堕落なことになってしまうでしょうが、悲しく苦し過ぎても疲れ果ててしまいます。

 

いますぐの解決は不可能なことも山ほどあると思います。

けれどもほんのいっときでも、花を見て「きれい」とか、空を見上げて深呼吸できるゆとりを自身に与えていくことを意識して、次の流れに向かって進もうとすることで、心の時間が常に流動しトータルバランスがとれるのです。

 

この一瞬一瞬が同じところにはいられないのです。 

今できることからゆっくりと

 

石上神宮

 

 

お守り

 

 お守りといえばまず、神社等のお守りが浮かんでくることでしょう。

毎年新しいお守りを買って身につけていたり、

受験や就職や安産のお守りのような、

日頃の生活で精神的に負担が大きくなっているときに

お守りのお世話になることが多くあります。

 

苦しいときの神頼みは実に的を射ている表現で、

そんな大変なときにはお守りでも持っていようかなと思うものです。

 

しかし願いが叶わないと、「やはり神などいないし信じない!」と思ってしまうかもしれません。

この世には叶う事と叶わない事があるのだと自分が納得できるまでの行為が幾度か繰り返されるものです。

それは神という存在がその人によって違いますから、

仕方がないこととも言えます。

 

 自身の気持ちの拠り所として、お守りという物に託して

神という高い精神性を持つ意識とつながりを築いていこうとする

一つの手段として工夫されてきたパワーを与えてくれる存在でもあります。

身近なことでは、例えばのお話ですがご主人が危険な登山に行こうとしたときに、奥さんが渡すお守りは神社のものでも、あるいは手作りの可愛い子袋だとしても、

無事を願う思いやりのこもったつながりを物に託しているのです。

 

そしてそれを受け取り、肌身離さず大切に出かけるご主人との精神的なつながりが生み出され、「力」も与えてくれます。

 

人は自分の中に高い精神性があるにもかかわらず、

何か追い込まれてくると絶対に大丈夫だとはなかなか思えないもので、

自分で真の自分が見えない不安をお守りなどに置き換えて、

そこに気持ちを込めて心を置くと考えたほうがよいでしょう。

 

いろいろな所のお守りを山のように買ったりもらったりすることよりも、

いつも参拝している神社のお守りだったり、

大切なご家族のくれた心の込もったものがあなたのお守りになったり、

愛する人からのプレゼントが大切なお守りになったりします。

 

例えばそれがペンダントだったとしても、窮地に追い込まれたときにそれを握り締めて問題の解決を祈ることも可能です。

信頼により自分の心が集中できて、気持ちに力を与えてくれたり、

やすらいだりできることが第一なのですから。

あまり物質的にばかり捉え過ぎないほうがいいとは思いますが、むしろ人も物質ですから致し方ないのです。

 

ラッキーなアクセサリーなら大切にする気持ちを忘れないでいてください。

そしてお守りとするものを持つのなら自身の心を託すものとして考えて、

「どうせ神様なんかいないんだ!」などと考えずに、

あなた自身にある神的意識につなげてください。

 

 追い詰められたときに、「お母さん助けて、神様助けて」とつい願ってしまった人は、結構多いのではないでしょうか? 

 

これはあなたの精神性の奥底でその存在を知っているからにほかならないと思います。本当のお守りは「愛と信頼と神性」なのです。

 

流されすぎないように

 

テレビを始めマスコミという情報社会はなくてはならないもので、毎日さまざまな情報を得ることができます。

 

ニュースもファッション・旅行・健康などすべての知りたい情報は何らかの形で知ることができます。

 

健康にしても何を食べると身体に良いとかキリがないほど取り上げられて、翌週にはそれらを取り扱った商品等が売り切れ続出状態だったりします。

 

これは健康に皆さんが興味を持たれて楽しんでいる流れなのですが、とにかく良ということだけで摂取しすぎて検査の数値が上がってしまったという人もいます。

 

 さまざまなものが科学的に解明されてくると、さらに善し悪しが判明することでしょうが、本来はすべてのバランスがとれていれば問題ない存在だと大概の方はわかっています。

 

しかし健康食品に限らず、視覚、聴覚に訴えてうまくアレンジされて情報を伝えられるとついつい信じてしまう。それが流行りの原点であり商売が活性化することも確かですが、最近では新商品が次々と生み出されるために、

 

なじんでくる前にまた次のものへとすごい速さで流動しています。もっともキリのない前向きな需要と供給は必要と思います。いき過ぎもバランスを欠いてしまいます。

 

 私たち人の身体も細胞分裂で維持され、毎日、体細胞分裂が体内でなされ、古いものは新しいものにつくりかえられていますが、前述の需要と供給においても流行り廃りが生活にかかわることを考えれば、社会という世界での細胞分裂がやはり日々繰り返されているのではないでしょうか?

 

 けれども古いものは新しく生まれ変わるというだけで、私たちの骨格や内臓、筋肉はいつもと変わらず我が身に存在しています。

 

我が身で起きている細胞分裂の自然さがすごいことだと感じます。自然の流れはすべての状態や条件が作用を起こしてつながっているのです。

 

 話を元に戻しますと、私たちの身体は自然な流れを自分の意識しない意思を持って毎日身体の内部で活動しています。

 

この瞬間にもウィルスと戦っているし、がん細胞とも常に戦い守って流れをつくっています。自力で頑張っているのです。

 

自然な流れを自分で知っているのですから、世の中の情報や流行にくれぐれも流されすぎないように。逆らいすぎても面白くはありませんが、みさかいなく流れに巻き込まれないように。

 

最低限の流れの中で自分が泳げる程度に巻き込まれるくらいがちょうど良いのかも知れません。 

 

 遺伝子が生涯を定義づけているかのように言われますが、自分自身にも遺伝子レベルで癒していける力を備えられている可能性があるのではないかと思います。

 

マスコミやyoutubuなど様々な情報も見聞きできますが、どれが正しいのか判断するのは自分自身でもあります。

惑わされないように

 

 

人がいつも自分のことを噂している

※ご本人の了承を得て掲載しています

A子さん(30代)は生まれ育った東北地方から首都圏郊外に住み始めたころから、

A子さん「自分が歩いていても「バ〇」とか「お前のせいだ」とか言われたり、電車に乗っても、自宅にいても、窓の外から人が罵声をあげていくのです。

「だからお前はバ〇なんだ」「この野郎」といった内容ですが・・・・、

常に悪口を言われているのがたまりません。

職場でも後ろで私の悪口を囁かれていたりします。

 

みんなが私のことを知っていて、どんどん噂が広まっていく気がします。

そばにいる人にも聞こえてしまう大きな声なので、

私が変に思われているのだと思います。

聞こえてくる声が同じ声かは定かではないですが、必ず男の声です。

 

本気で自分が怒って相手に言うと

何も話していなかったりしたこともありました。」

 

A子さん現実の声か、霊的な声か

見極めがつかないほどリアルな体験されています。

 

まず聞こえてくる現象は、特に街中では直接話をしていない見ず知らずの人とすれ違ったときですら起こっているのですが、

人間的には出会うすべての人たちががバトンタッチで

A子さんの悪口を世間にふれ回るわけではありません。

そこから冷静に受け入れていきましょう。

 

それでもA子さん自身には声も聞こえ悪口を言われるのが

はっきりと聞こえてきているのは事実ですから、それも受け入れましょう。

まずは受け入れて考えていく努力をしてください。

その声が聞こえているときの状況に素直に気持ちを向けてみると、

人の会話ではないことがわかってくると思います。

 

職場でも言われるときは、A子さんの後ろで

大きく聞こえるように言われるとのことですが、

結局直接A子さんに話してはいません。

 

聞こえてきているのは「霊聴」なので、

同じ場所にいる人でもその声はご本人しか聞こえていないのです。

まずそのことから理解をしていくことです。

 

(仮に五人で同じ場所にいても、霊感の強い人しかお化けを視ることはないのと同じですから、A子さんに聞こえる「男の声」は他の人には聞こえていません。) 

 

霊的に気になるのは故郷から首都圏に越して来てからということです。

いまの住まいに問題があるようには感じられませんが、いろいろお話しているうちに故郷の実家の近くに大勢の人を供養した塚があることがわかりました。

 

*A子さんの実家は山奥のほうで、昔は鉱山もあり多くの犠牲者を出したところでもありました。

実家の墓所の近くに犠牲者を弔う塚もやはりあったようですが、

この家の人が塚の供養をすることがなくなっていたのと、

A子さんがご実家を出てしまうと、

いまは誰も住んでいないためにこのような形で現象が起きた(知らされた)のです。

 本来は、できないものはできないし、

人は同じところに住み続けていくわけにはいきません。

常識では確かにそうですが、この聞こえてくる

「罵倒する声」の場合は亡くなった人の意識そのもので、

特に罵声を浴びるような言葉がとても多く聞こえてきていることが気になり、

探ってみると、彼ら(亡くなった人たち)が

鉱山で働く中でかなり現場で罵倒されてきた感覚が強く、

亡くなっても、悔しさでその意識が強く残ってしまったのです。

 

先祖の墓地の近くに供養塚があっただけで

A子さんとは直接的には関係がないようにも思えますが、

どうもこの鉱山の採掘の指揮に当たっていた人物が先祖にいたようなのです。

 

A子さん本人が子供の頃にそんな話を聞いたことも覚えていました。

 そのようなわけで、実家に一度戻って供養をしてくることで、

声が聞こえることはかなり軽減され、時折耳鳴りがするようなときには、

部屋でお香を焚く程度でおさまるようになりました。

 

ただいままでのように、人に何か言われるのではないかという思いが

強く残って不安が消えるのに少し時間がかかりましたが、

もともと感受性が強いので自分で意識を下げていくことがないように、

不安を持つことよりも自信を持つことへと転換して

物事を受け入れるように伝えていきました。

 

 自分という存在のオーナーは自分であり、人生を引っ張るリーダーも自分自身でしかありません。過去の現象にいつまでも自身の大切な時間を奪われないようにしていくことも大切です。

 

 

 

母親が亡くなってからの出来事

 

もう30年以上前のことですが、私の母親が50代で病気のため、

3ヶ月弱の闘病生活の後に亡くなりました。

 

葬儀も終わり、いろいろな準備であわただしく動いていましたから、

悲しみに浸る時間もなく2、3日が過ぎた頃、

気がつくと胸が苦しいことに気がつきました。

 

胸が苦しく息苦しかったり少し楽になったりの繰り返しが続き、

看病や葬儀で疲れたのかと思っていました。

 

体を休めるためにも何もしないで寝ていようとするのですが、

呼吸は浅くなるし、余計苦しくて気持ちまでつらく悲しくなるのです。

 

自分が感情的になっているのかとも考えましたが、

母親の死は悲しいながらも受け止めているのに、

それでも気持ちのやり場がないような感じです。

 

母の霊が近くにいることもわかりましたがそんなとき、

夢うつつの状態で母親が入院中のベッドに寝ている情景が鮮明に見えたのです。

はっきり目覚めたときに、この苦しさは亡くなる前の母親の状態なのだということがわかりました。

 

ただ母親の霊的意識が迷っているのではなく、

早く亡くなってしまいもっと話したいことがあるようでしたが何もしてあげられないということに、つらさを感じていたようです。

 

訳あって別居して暮らしていたのでその思いが意識として強くあるために、

伝わってきて同調したのです。入院中の意識も記憶に新しく、

苦しい感覚が残っていても肉体を離れているので

体の辛さ重さは解放されてきます。

つらく悲しいのは思いの意識です。

私は大丈夫だからと霊に伝えて祈り、

初七日も過ぎたころ楽になってきたのでした。

 

お身内の方を亡くされたときに、

つらさや苦しさなど伝わってくることもありますが、

亡くなった事を理解されている霊でしたら

初七日や四十九日も過ぎてくると霊も肉体の感覚から離れてきます。

 

それまではこの世に思いが残っても仕方のない時期なのかも知れませんが

あまり長い間続いているようですと

少し問題を抱えていることもあるかもしれません。

 

 

無我の境地で徳を積む

 

自分のことばかり心配していてもよくないですが、

 

人のことを思いやることは大事とは言っても

 

人の生活に入り込みすぎてしまうのもお節介。

 

相手の思うように動いてあげたとしたら喜ばれ感謝されますが、

 

例えば、相手が困っているときにお金を渡すことは

 

喜んでくれるのは確かです。

 

それでも精神的な感謝の受け取り方は

 

自分が思っているほどではないかもしれません。

 

手をさしのべてあげたいと思うなら、

 

自分が満足できることでなければならないのです。

 

徳を積むのは嫌々やってあげたのではつらいだけですね。

 

イヤならやらないこと、笑顔が残るならよき決断!

 

無我の境地で徳をつめるのです。

 

見返りを望まないで自然に出来ることが知らないうちに徳を積んでいます。

 

存在とか意識の向上

 

自分がのけ者に思えるとしたら、

そこにあなた以外の気持ちの存在があるかもしれません。

 自分という立場は、自分がそこに存在をしていることを確認できることから生じています。自分を確認したいし、その方法として他の人と比較して捉えることもよくあります。

 

 家族の中でも自分だけが、

「のけ者、よけい者」になっていたり、自分だけが他の兄弟と比べても冷たくされているという人もいます。

実際に気の毒なほど極端にそういう状況に置かれることがあります。

 

これはケースがそれぞれ違うことを承知しておいていただきたいのですが、皆と同じ扱いをされないことで、あえて自身が同じような仲間に入ることを妨げられていることもあります。

 

一番守るべき大切な人をあえて端に置いたり、あえて冷たくしてつらく悲しませたりしなければならないことも、ときにはあります。

  最近では少ないかも知れませんが、仕事がどうしても優先で本当に大切な奥さんやお子さんや家族のことを後回しにしてしまうとか、

 

もし母子家庭なら生活のために働く母親が、仕事のために子育てに時間が充分にとれないなどさまざまな状況と事情はあるものです。

 

 いずれの立場に置かれてもとても淋しくつらいことですがすぐに逃れることは不可能です。

 

 精神的向上には、あえて辛苦が付いて回ります。つらい状況に身を置かせる宿命の時期でもあるかもしれません。

 

ここで自分が我慢し耐える、つらさや苦しみ、うらやみ等から気持ちを救い上げていこうとする自分の本来有する高い霊性が、どんなに大変な現実にも負けることなく浮き上がってきます。

 

これにより苦しいときに苦しみを責め続けることなく、自身を見失うことなく、寄り付いてくる意識体(不浄霊)にも打ち勝つことになります。

 

寄り付いてくる意識体とは、人が悩んで苦しめば、

その気持ちに誘われてマイナス霊も近づいてきます。

 

(それは人かも知れませんし霊かも知れません)人の気持ちが変わらずにいるとその距離はますます近くなってくる、完全に同化してしまうととり憑かれるという現象になります。

意識の世界は4次元でリンクされてくるのです。

 

けれども人は落ち込み続けることから這い上がろうとする気持ちが自分の中で必ず生まれてきますから、そのときにプラスの霊である守護世界の精霊たちとリンクしてくることになります。

 

  考え方の例として、嫌な体験をするときに、もしも家族や恋人を責めるようなことがあったとき、その嫌な体験の相手がこの家族や恋人でよかったとも思えたら心の動きは変わり、この相手だったからここまで我慢できたのだ!と気持ちの過程どのような流れで心をおさめるかで霊的な成長が育まれてきます。

より良き日々でありますように。

 

神棚のお水は毎日取り換えてください

ご本人の承諾を得て掲載しています

都内のA家は、
元々は旧家で広い土地ももたれていました。

昔は農地もありましたから敷地に氏神様も祀っていたと思いますが、

住宅地となった今は残っていませんが、

自宅の神棚でお札をお祀りしていました。

こちらの家のA子さんはある日気がつくと

頭の頭頂部に50円玉ほどの円形脱毛を起こしていました。

 

でも痛くもなんともないのと、以前も円形脱毛は何度かなっていたのと、

自然に治っていたのでしばらくほおっておいたのです。

 

ところがある日、円形のところだけが異常に痒い、

急にどうしたのかと思うくらい痒くて痒くてどうしようもない。
こんなことははじめてだったのでした。

A子さん頭の上だから神様?・・・となんとなく思い
自宅の神棚をあらためて見てみると

お塩お米は供えてありましたが、水玉(水入れ)がからっぽ!

自分も忙しかったため、ご家族がきちんとお水も取りかえているだろうと思っていた・・・

すぐにお水を入れてお供えして、その後にA子さんとお会いしましたが、
お供えのお水を家族任せで確認もできていなかった。

でもそれがきっかけで、しばらく神社へもいけずお札も変えられていないので

時間を作ってでもきちんといくことをお話ししました。
そういうことに気がついたとたんに痒みが治まってきたのです。

 

家を守っていただいている神様です、

朝一番でお水を取り替えるなり優先順位を大切に。

霊的な感受性が強い人は過敏に反応しやすいですし、

あれ~というようなことも起こることもあります。

 

A子さんの場合はとても現象が起こりやすく、
これまでも水漏れでもないのに室内で上から水滴落ちてきたり、

靴の飾りベルトがある場所で(あまりいきたくなかったところ)で

靴の両方のベルトが同時にはずれたり・・・・・

 

日々の生活に忙しく、神仏のことを怠っていると

何らかの現象もでやすくなるのです。

 

そういえば言われていたのに

しばらく参拝していなかったことを思い出したりするのですが、

少し怠ってしまうと現象がおこってしまう方もいます。

 

あるいは現象とは言えないまでも、感受性が強い方は

何となく不調や、何となく人間関係の不調和が出やすいかも知れません。

日々の生活の中でご自分の心の置き場が落ち着いて穏やかでありますように。
日々感謝できますように。